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上山市(かみのやまし)は、歴史のある温泉の町です。
 「かみのやま温泉」の始まりは、室町中期の長禄二年(1458)、旅の僧「月秀」(げっしゅう)が上山にたどり着いたとき、舞い下りた鶴が、湧き出るお温に傷ついた脛(すね)を癒している姿を見つけ、霊液の温泉であると思い、地元衆とともに掘り起こして温泉にしました。鶴の癒した脛の温泉ということで、鶴脛温泉と名付けられました。
「月秀」和尚は良界上人月秀といい、肥前国杵嶋郡の生まれで、諸国を行脚している途中に上山に立ち寄ったのでした。
 
かみのやま温泉の変遷
 旅の僧「月秀」が長禄二年に鶴脛の湯を発見してから、徳川時代の初期寛永二年までは、温泉源の付近に中世集落が生じ、「湯の小路」と称されていました。
湯持八軒と後に称された、八戸の農家が自噴する温泉湧出口から、自宅内に湯を引き、農耕のかたわら自炊の入浴者を宿泊させていました。その後、藩政時代になり、明治維新までは、歴代の藩主により、温泉の管理は藩のおかかえとなりました。
 特に徳川時代には全国的にも城下町の都市計画が盛んになり、わが町上山でも天与の温泉を巧みに利用し、温泉町として、設備を充実させました。
寛永二年羽州街道沿いの観音堂の下に、「下の湯」を引湯して以来、共同浴場三ヶ所を新設し、宿屋内湯七ヶ所に引湯を許可し、近郷近在はもちろんこと、他国の湯治客に上山温泉を大いに宣伝したといいます。
いっぽう、昔「湯の小路」と称されていた鶴脛温泉の源泉地付近は、徳川時代に入ると「湯町」と呼ばれるようになっていましたが、表町(十日町・二日町・新丁)の温泉街の宣伝に伴い、次第に寂れていきました。湯宿兼農家は農地付近に転住し、そしてその空家に藩の家臣が住むようになってきました。
天明三年(1783)上山藩は湯町を家中地(藩士の居住地)と定め、従来の湯持者を軽輩の家臣に取り立て、湯宿営業を禁止しました。以来、明治四年の廃藩置県まで湯町は温泉場としての機能を失ってしまいました。

文明開化の時代になり、明治維新を迎えると、湯町は「家中地」としての束縛が解かれ、湯治客の出入りが自由になり温泉場としての門戸が開かれました。十日町通りには、官公署が次々と建てられ、、特に奥羽本線鉄道開設後は商店が軒を連ねるようになり、急速に繁華街になっていきました。温泉街は喧騒の巷となりました。
昭和初期となり湯町の旧湯街に対して、新しく新湯温泉街ができて、更に高松・河崎・葉山温泉街ができ、今では「かみのやま温泉郷」と呼ばれるような発展をとげ、近代的なホテルや旅館が立ち並び今日まで至っております。

(湯上和氣彦著「上山の湯と宿」から引用させていただきました。)